DASH!

第三章 Dream.


2

 半端な人ごみを朱色が照らす。人ごみの大半は主婦。
 どうでもいい話しではあるが、昼過ぎからこの時間にかけての若い主婦を見ると、何かこう、淫靡なものを感じないだろうか? 買い物袋に入った葱や秋刀魚などが煩悩を煽る。…………ああ、オレって何なんだろう。
「流石にペットの持ち込みは無理だと思うから、ここで待ってて」
 無駄な思考と煩悩および自己嫌悪を断ち切る、オレにしか聞こえないような小声。こちらに目も向けず、杏は面倒臭げに言った。失礼な。 「ペットって言うなよ」
 夕暮れ時、オレと杏は、叶に頼まれ食料品の買出しにやって来ていた。タイムセールを狙って来たあたりが庶民的でセコイのだが、杏がどうしてもと言うので結局、この時間、このスーパーに来る事になってしまった。貧乏性め。
「うるさい。大人しく待ってて。っていうか何で着いて来たの?」
 ギロリ、と眼球だけを動かして睨み付けられる。マジ怖い。
「暇だったんだよ。別にいいだろ? 損も害も特に無いし」
「あっそ。それじゃ、行ってくるから」
 そう言って、飲み込まれるようにスーパーに入って行った。

 五分後。

 目の前で、わんわんと喚く小型犬。首輪が無いので野良犬だろう。野良犬は鼻息を荒くして、こちらを睨み低く唸っている。
 何でか知らないが、オレは野良犬に絡まれていた。
 喧嘩を売られる覚えなど無いのだが、売られたからには買わねばなるまい。ここで引くわけにはいかないのだ。正々堂々と打ち負してやるべきである。
「おいおい、いいのか? オレに手ェ出すと、飼い主が黙っちゃいないんだぜ?」
 ――わん!
「……まぁ、待て、落ち着けよ、な? 魔女を敵にまわすなんて、利口じゃない。正気の沙汰じゃない。分かるだろ?」
 ――わん!!
「……わ、分かりますよね? 見た感じ利口というか賢そうな顔されてるんで……。ええ、ええ、分かってますとも。ただって訳にはいきませんよね。オレには分かってます。ここでオレを見逃してくれるなら――――いい娘紹介しますよ? それはもう極上の雌どもです。犬の知り合いってのはいないですけど、人間か猫なら紹介できると……、」
 ――わん!!!
「――ひぃっ!」
 あ、駄目だ、殺される。……そう思ったとき、視界の左端から右端へ影が走った。それが人間の足だと気付いた頃に、野良犬は、きゃん、と鳴き軽く吹っ飛んでいた。そのまま尻尾を巻いて逃げ出していく。文字通り負け犬である。ざまあみろ。
「にゃー」
 助けてくれた人間に褒美でもくれてやろうかと、猫撫で声で鳴いてみた。褒美とは当然、愛くるしいオレ様を存分に拝ませてやる事である。足元に擦り寄ってやると、
「気持ち悪ぃ声出すんじゃねえ。クソ猫」
「――ぐふっ?!」
 軽く腹を蹴られた。何という暴挙。暴力反対。
 痛みに耐えつつ見上げると、心底嫌そうな顔でこちらを見下ろす黒スーツ。目付きの悪い矮躯の青年だった。
「あれ? 藁菱か?」
「やっぱりお前か。こんな所で何してんだ?」
 さっきの蹴りは、何だかんだで手加減されたものだったのだろう。痛みは既に消え去っていた。
「買い物。飼い主に買い物頼まれて、相方と一緒に来たんだけど……」
 首を動かし、すぐ近くにそびえるスーパーを睨む。
「なるほど。確かに猫をスーパーに入れるわけにはいかねえだろうな。で、何で野良犬に襲われてんだよ?」
「さぁな。オレの毛並みやその他諸々に、嫉妬でもしたんだろ。……それにしてもまったく、余計な事をしてくれたな。おかげであのクソ犬に逃げられた。後一歩でオレ様の美技、妙技を拝めたものを」
「いや、どう見ても完全に屈服しかけてたじゃねえか……」
「お、お前にはそう見えただけだろ。チャンスを窺ってたんだよ、オレは。にしても酷いな。あんなひ弱そうな犬に蹴りかますなんて」
「あぁ? 馬鹿かてめえ。優先順位の問題だ。知り合いと野良犬のどっちを優先するか、なんてのは考えるまでもねえだろ。まぁ、他にも理由は有るけどな」
 理由? 聞く前に、スーパーの自動ドアが開き、杏がやって来た。両手に抱えた大量の食料品。あれは多分、前見えてないな。
「相方って、アレ?」
「ああ、まぁ、一応」
 オレの返答を聞いて、藁菱は杏のもとへと歩いていった。オレも着いていく。
「前見えねえだろ。半分持ってやんよ」
 言って、藁菱は杏の荷物を半分奪う。
「……ありがとうございます。……あれ?」
 荷物を奪われた事に若干焦りつつもオレを視界に捉えた後、礼を口にし、杏は藁菱を凝視。ややあって頭上に、ピコン、と電球マーク。いや、実際に見えたわけじゃないけどさ。
「もしかしてヤス兄ちゃん?」
「あぁ?」
 こちらもややあって、ピコン、と電球マーク。くどいようだが、実際に見えているわけではない。
「もしかして、白玉さん家の……えーと、なんつったけ? 食いモンみてえな名前だったってのは覚えてんだけど……」
「…………」
 それ地雷。つか、わざとだろ。
「杏だよ。白玉杏」
 言い辛そう、というかキレかかっている杏の代わりにオレが答えた。
「ああ、それだそれ。ホント、食いモンみてえな名前だな。にしても、久しぶりじゃねえか、おい。あのクソガキがこんなに成長するなんて驚きだ。お袋さんほどじゃねえが、それなりに育ってんじゃねえかよ」
 引きつった笑顔で青筋を浮かべる杏。笑顔なのに超怖い。こいつらが知り合いだった事に驚く余裕も無いくらいに怖い。
「ヤス兄こそ変わったね。――もしかして、背、縮んだ?」
 ブチッ、と何かが切れる音が聞こえたような気がした。
「あぁ? てめえが伸びたんだろうがよ、クソガキ。常識的に考えれば分かんだろうが。そんな事も分かんねえのか? ボケが。何年経っても育ったのは体だけってか? その体にしたって、育ち具合は半端だしよ。もうちょい、凹凸の激しい体にできなかったのかよ?」
「……黙れ変態」
 一瞬、鬼のような形相をした後、杏はすぐに笑顔を取り戻した。
「ねぇ、私の見間違いかな? ヤス兄、私より背低くない? ちょっと、隣に並んでみてよ?」
「――はぁ? ……そんなわけ、ねえだろ」
「私もそうは思うけど。もしかしたら、ね。……ほら、早く並んでみてよ」
 青筋バキバキ。火花バチバチ。空気が辛い。とてつもなくスパイシー。
 杏さん、あなたの名前は甘そうでとてもチャーミングですよ。凹凸の少ない体だって大丈夫。どこかできっと需要が有るさ。
 藁菱さん、大丈夫。ほんの少しだけ、でも明らかにあなたの方が背が高いです。オレはそんなあんたが嫌いじゃないんだぜ?
 何とか二人をなだめなくてはいけないと思い立つのだが、どうしたものか。下手な事言ってして余計に怒らせてしまっても面倒だし。いや、それでも止めないと。これ以上、周りの注意を引いてしまえば、オレが口を挟む余地が完全に無くなってしまう。
「止めて! 二人とも、オレの為に争うのは止めて!」
「すっ込んでろ、クソ猫!」
「うっさい黙れ、バカ猫!」
「……はいぃ」
 このあと数分、二人はオレを罵倒し続けた。何故?
 ……生まれ変われるなら、物言わぬ樹にでもなりたい。大樹になって矮小なこいつらを見下してやる。
「……それでさ、藁菱は何か用でも有ったわけ?」
 しばらく癒えそうにも無い心の傷を抱えたまま、訊いた。さっきオレを助けた、もとい、余計な事をしてきたとき、理由が有るとか言ってたし、何か用件が有るのだろう。
「あー、忘れてた」
 悪ぃ悪ぃと、煙草を咥えながら言った。
「魔女の所に案内しろ」