家のすぐ近くを通る電車の音と蝉の音で、目を覚ました。
 肘の辺りに違和感を覚え、寝巻きから着替える際に確認すると、肘が薄緑色に変色し ていた。
「……とうとうか」
 などという何かを悟ったような声が、薄暗い部屋の中に溶け込んでいく。
 携帯電話を取り出して会社に連絡。事情を話すと簡単に仕事をやめさせてくれた。三 年ほど勤めただけの小さな会社で、思い出と言えるような記憶などもなかったが、こう も簡単に見限られると、さすがに気分が落ち込むものだ。
 電話を切った後、二度寝を試みたのだがどうにも眠る事ができず、気付けば部屋の掃 除を始めていた。
 午後になるとやることもなくなってしまった。昼食のカップラーメンに湯を注いでい ると、なんとなく両親にでも会いに行ってみるかと思い立つ。会うのは確か一年ぶりだ っただろうか?
 思い立つと、すぐに行かなければならないという焦燥感じみたものが胸のうちで芽生 え、私は手早く支度を済ませ家を出た。
 安月給に見合った安アパートを後にして、私は両親の元へと向かった。
 外に出ると、八月の強い日差しと蝉時雨が盛大に降り注ぐ。普段ならば思わず顔を顰 めてしまうそれが、今日は別段不快ではなかった。
 カップラーメンをそのままにしてしまっている事に気が付いたのは、近所の煙草屋を 通り過ぎようとしていた頃だった。ここまで来ると引き返すのも億劫で、また、十分ほ ど放置したカップラーメンを想像すると食欲も失せてしまったので、食事は後々他所で 済ませることにした。
 さらに五分ほど歩くと駅前の公園に差し掛る。公園では三人の子供――おそらく小学 生だろう――が遊んでおり、その中の一人、白いワンピースの少女が私の目を引いた。  その少女は明らかに他の二人とは異なった特徴を持っていた。まず、肌が全体的に緑 、あるいは茶色いのである。動作も緩慢で、他の二人と比べると、本当に自分の体を動 かしているのかと思うほどにぎこちない。
 体が植物化しているのである。
 少し前に人類は癌を克服し、風邪の特効薬の開発にも成功した。不治と言われる病な どはなくなり、いずれは不老不死も夢ではないと謳った。その人類を待っていたのがこ の結末だ。原因も不明なもので、誰もがさじを投げた。そもそも、今の人類にはこの問 題をどうにかしようという気力が欠如しているのだ。どこぞの学者や評論家は、地球の 生存本能が働いたのだと言った。どこぞの宗教団体は、不死に挑んだ愚かな人間へと天 罰と言った。しかし、そんな事はどうでもいいのだ。今の人類にはやはり、そういった 物事に対応する気力が欠如しているのだ。
 しばらく子供らを観察した後、私は駅へと向かった。
 駅構内の自販機でやめたはずの煙草を購入。煙草を口に咥えたところでライターを持 っていないことに気が付き、煙草をポケットの中へと収めた。代わりにドロップの缶を 取り出し、その中から一粒、ドロップを口の中へ放り込んだ。
 煙草をやめたのは去年の春の事だった。止めたきっかけは何だっただろうかと記憶を 辿ってみたが、上手く辿る事ができず、やがてそれは蝉時雨と電車の音の中に紛れて消 えていった。  平日の昼過ぎという事もあり、電車の中は空いていた。入り口付近の座席に腰掛け、 瞼を閉じる。途端、自らつくった暗闇に覆われて私は怯えた。このまま瞼を閉じて、そ のまま瞼が持ち上がらなくなり、気が付くとが冷たい床に根を張っている自分を想像し てしまったのだ。
 瞼を持ち上げた頃には電車の扉が閉まっていた。
 窓の背景がゆっくりと流れ始め、がたごとと音を立てながら次第にその流れが速くな る。
 次の駅では一人の老人が同じ車両に乗り込んできた。老人は枯れ木のような男性で、 手や足を動かす度に関節が軋み悲鳴を上げている。彼はブリキ人形のような動作で私 の向かいの座席に座った。
 向かいに座る老人は植物化がかなり進んでおり、両の眼はかろうじて開いていたが、 虚ろで白濁したその眼が開いているかいないかという事に、私は然したる違いを見出す 事ができなかった。
 老人が駅を降りるまでの間、無感動にこちらに向けられる視線を、私も同じく無感動 に見つめ返していた。
 乗換えを合わせ八つ目の駅で降り、そこからバスでニ十分。更に歩いて十分ほどで私 は両親の元へ辿り着いた。
 辺りは緑地公園になっており、その中に寄り添うような――あるいは私にはそう見え ただけなのかも知れないが――二本の樹があった。片方は幹が太く屈強な印象を与え、 もう片方は全体的にはほっそりとしているが、力強く地に張った根が印象的だった。  両親だ。
 緑地公園にある水道で、そこに備え付けてあった如雨露(じょうろ)に水を汲み、両 親に水をやった。
 去年来たときよりもかなり背の高くなった両親を見上げる。葉々の隙間から漏れる太 陽の光りに私は目を細めた。蝉の音が脳を揺らし、生い茂った葉の擦れ会う音がざらり と鼓膜を撫でた。
 その後、私は緑地公園を目的もなく歩いた。
 空が朱に染まり始めた頃に一人の女性が私に声をかけてきた。
「お見舞いですか?」
「ええ、まぁ、両親がここにおりまして」
 お見舞いというよりは墓参りのような感覚なのだが、その事について特に言及はしな かった。
「そうですか。私も主人がここにいるんですよ」
 ふっくらとした唇と、口元にある黒子が印象的な女性だった。年齢は二十代後半から 三十辺りだろうか?
 その後しばらく、私たちは世間話を楽しんだ。会話は思いのほか盛り上がり、日が落 ちる頃に女性が魅力的な提案した。きっかけは私が朝から何も口に入れていないと言っ た事からだ。
「もう少しお話もしたいですし、家に食事でも食べに来ませんか? 一人での食事はど うにも味気なくて……」
 断る理由は思い付かかず、そのまま私は女性の家へと案内された。
 女性の家は小さな一軒家で、他に人がいる様子はなかった。ペットを飼っているわけ でもないようで、女性は本当に一人きりで暮らしているようだ。
 用意された食事は二人分だったが、女性がそれに手をつける様子はない。私が訪ねる と、
「いえ、最近どうも食欲がなくなってしまって……。もう水だけで事足りてしまうんで すよ」
 女性はそう答え、グラスに入った水を口に含んだ。
 彼女の植物化が進んでいるのは明らかだった。私が苦笑しながら、緑色に変色した肘 を見せると、彼女は少し安堵したような表情を見せる。
「別に恐くはないんですよ。ゆっくりとヒトとしてまっとうでない終わり方に向かって いるというのに、不思議と心は穏やかなんです。漠然となんとなく受け入れてしまって いる自分がいるんです。最近になると、このまま植物になるという事はより長く生きる ための、ヒトとしての新しい機能なんじゃないかと思うときがあるくらいです。もちろ ん、そうではないという事はわかっているんですけどね」
 女性はグラスの水をもう一口含み、続けた。
「ただ、心に違和感を感じる事があります」
 そう言って、彼女は半分ほど水の入ったグラスを眺めた。
「通常、心というのはこのグラスとその中の水のようなものなのだと思います。水の量 はその時々によって代わるものです。満たされてる時もあれば、喪失感に襲われる時も ある」
 彼女は水を飲み干すと、グラスの中に水ではなく緑色の液体を注いだ。おそらく緑茶 か何かだろう。
「心の中が今までとは違う、別のもので満たされていくんです。最初の頃はそれに抵抗 らしい事をしていたような気がするんですが、今ではすっかり、これが私なんだと受け 入れてしまいつつあるんです」
 言い終わった頃には、グラスから緑色の液体が溢れ出していた。  食事を済ませると、私は片づけを手伝い、気が付けば暗くなった寝室で女性と抱き合 っていた。
 女性の服を脱がせると、闇に慣れた眼が緑色に変色した肌を捉えた。女性の背中は広 範囲が緑色に染まっており、よく見れば足の先も茶色くなってきている。  その晩、私達が行ったヒトとしての営みが、私がまだヒトである事の証明であるよう な気がした。
 翌朝、女性はぎこちない動きで私を見送った。昨日と比べ、人間らしさを損なってい るように感じる。
 帰りの電車の中で私はいろいろな事に思考を働かせた。そうし続けることで自分に、 自分はまだヒトであると言い聞かせていたのだろう。
 肘を見ると、昨日よりも緑色の範囲が広がっていた。いつ完全に植物と化してしまう のかはわからないが、それはそう遠くない未来だろう。
 女性の言葉を思い出す。彼女は、自分はヒトとしてまっとうではない終わり方に向か っていると言った。
 本来あるべき死ではない終わり。それはきっと、生と死への冒涜だろう。
 不死ではないものにとって、死というのは産まれ生きるものものの特権であると私は 考える。その死を曖昧な終わりにしてしまう植物化というものは、きっと生や死といっ た概念に巣食う病なのだろう。
 八駅の後、私は凝り固まった関節をほぐし、電車を降りた。
 帰りに通りがかった公園で足を止め、足元に落ちてあったライターを拾う。立ち上が ると、関節が軋んだ。ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。白い煙がゆらりゆ らりと空へ昇っていく。
 公園を覗くと子供たちの姿はなかった。
 もう大分緑色に染まった肘に眼をやり、ふと、昨晩の事を思い出す。昨晩自分が彼女 の中に放った種子は、果たして本当に人間のそれであっただろうか? そもそも私には 生物学的に言ってそういった機能があったのだろうか? だんだんにそういった事が曖 昧になっていく。足を持ち上げる事も、関節を動かす事もできるのかどうかがわからな い。
 肺の内には煙草の煙が満ち、胸の内は緑色のざわめきで満たされていく。
 公園には昨日通ったときにはなかった、一本の小さな木があった。
 生ぬるい風が吹き、白色のワンピースが風を孕んで膨れ上がった。
 頬を伝う涙の温度が、私がまだヒトである証だった。