DASH!

 プロローグ

 始まりを告げる銃声と熱気を纏った大歓声。
 焦げ茶の大地に真白のライン。
 炎天の下に晒される真夏の一時一欠片。
 一呼吸ごとに肺が焼け焦げるような熱を以って、身体は血を滾らせる。
 銃声と共に駆け出して、あらゆる景色を追い越して、後方などには目も呉れず、無人 のコースを駆け抜ける。
 イメージは銃及びそれから放たれる銃弾。
 祝福の帯(テープ)と栄光の記録(レコード)を標的とし、この身は一発の銃弾と化 す。
 それこそが自分が此処に在る理由なのだと定めた。
 流れる景色の中で、私だけが此処に在る。
 吹けば消し飛ぶ砂の城。
 乾いた風をこの身に受けて、必死にそれを守り抜く。
 無価値で無意味な砂の塊。
 それでもいつか黄金に至ると信じ、ただただ積み上げる。

 ――崩壊、あるいは砕け散る音を聴いた。

 有り得ない失速。
 消え失せる感覚。
 崩れ落ちる錯覚。
 両の足から力が抜けて、景色が停止し、後方有るはずの光景が遥か前方へ――

 その日、私は一切の価値を失った。



第一章 Cat!


 一滴、雨粒が弾けた。
 見上げれば、四角い空は鈍色でぽつぽつと雨が降り出していた。小粒の雨が全身をゆっくりと濡らしていく。
 オレの体同様にゆっくりと雨に濡れるダンボールの箱。そこからオレは可愛らしく頭を覗かせた。
 目線を下にやると、ダンボールに張られた”拾ってやってください”という貼り紙。赤いマジックか何かで書かれた文字は雨で滲み、なんかもう血文字みたいになってて正直かなり不気味だ。これでは流石に、オレ様の魅力を以ってしても拾ってもらうのは少々困難かもしれない。
 さて、飼い主にここ――近所の道端だ――で待つように言われて数時間。通り過ぎた人間は六人ほど。未だ誰にも拾われる気配は無い。通り過ぎる途中「ごめんね」などと言った女がいたが、何もできないのならいっそ声などかけて欲しくなかった。まったく人間とは中々に冷たいものである。……まぁ、自分が逆の立場でも拾わないけど。
 さらにこの悪天候。もはや何者歌の悪意が働いているようにしか思えない。国家とか悪い魔女とか何かその辺の。
 雨粒を全身で受け止めながら、どこかで雨宿りでもしようかと思い立つ。ダンボールの箱はそれなりに底が深いが、幸い出られないほどでもない。でも、………怒るかなぁ。怒られるだろうなぁ。
「…………」
 言いつけを破るとあの飼い主様は許してはくれねぇなという結論に達し、オレは身を丸めてもうしばらく雨に耐える事にした。

 突然だが、我輩――もといオレ様は猫である。毛並み艶やかな黒猫である。名前や生まれは忘れてしまった。いつから猫をやっているのか皆目見当も付かないが、最初から猫だったわけではないだろう。人語を解し文字が読める猫などまず存在するはずが無い し、そんな事を考える事自体、オレが猫ではなかった事の証明になるような気がしないでもない。
 では、猫になる前は何だったのか。まぁ、十中八九人間だったのだろうが、名前すら思い出せないオレにとって、それはいまいち自信の持てない事でもある。
 飼い主が言うにはじきに思い出すことらしいので、余り悲観はしていない。ただ、焦燥感みたいなものを感じるときが有る。自身の名前を忘却、つまり擬似的に消失してしまった事で、自身の価値すらも無くしてしまったようで、――いや、そもそもからしてオレに価値など有ったのだろうか?
 …………。
 我ながらくだらない事を考えているなと思い、寒さに耐えるためオレは丸めていた体をさらに強く丸めた。

 数時間が経ち、辺りも暗くなってくると、いよいよもって人通りは無くなってしまった。雨が止む気配は無く、これ以上耐えるのも何だか馬鹿らしくなってきたとき、
「――」
 巨大な蝙蝠(こうもり)が目の前を通り過ぎた。比喩だ。黒い蝙蝠傘を差した少女が一人、オレの前を通り過ぎたのだ。
 通り過ぎる瞬間、僅かにしかし確かに向けられた視線。可愛らしく小首を傾げて見せてやったが、呆気無く無視された。少女はすぐさま視線を前方にやり、やや歩調を速めて去っていった。
 だんだんと遠さかっていく湿った足音に、何と無く耳を澄ませる。足音は次第に小さくなっていき、それに反比例して濡れた地面を叩く雨の音が強くなったような気がした。  星さえ見えない夜空を見上げると、街灯の明かりが目に沁みた。
 幾らか時間が経って、砂嵐のような雨音に再び足音が混ざる。どうやら、先程の少女が戻って来たようだ。歩調は先程よりも速くなっていた。片手に持ったビニール袋から察するに、コンビニで買い物でもしてきたのだろう。
 少女はオレの前で立ち止まった。同時に、数時間絶えず全身を叩き続けていた雨粒がぴたりと止み、真上から注がれる街灯の光も不完全ながら遮断された。頭上に広がる蝙蝠傘は大きく、背が高くも低くも無いこの少女には大きすぎる。
 見上げた少女の顔には濡れた前髪が張り付いていた。おそらく傘を差すのが下手なのだろう。あるいは大きすぎる傘も理由になっているのかもしれない。
 ビニール袋を地面に置き、少女は何も言わずにオレを抱き上げた。……掴み上げたという表現が適切か。
 ユーフォーキャッチャーの景品のようにオレの体は上昇し、少女の顔の位置まで持ち上げられた。目が合う。
「にゃ〜」
 とびっきりの猫撫でる声で鳴いてみた。

◇◆◇◆

 少女に連れて来られたのは、狭いワンルームマンションだった。
 部屋に着くなり、濡れ鼠のオレを少女は柔らかいタオルケットで乱雑に拭いた。
 部屋に光が満たされる様子は無い。パソコンのモニターが放つ光が散乱したゴミを照らし、ファンの音が部屋の中を漂う。……とてもじゃないが女の部屋とは思えない。
 少女は抱き上げると、
「お前、捨てられたの?」
 優しい声音でそう言った。
「いや、別に捨てられてたわけじゃない」
 オレはそう答えた。
「うわぁぁあああああああああああ!!」
 投げられた。思いっきり。
「痛ってぇ! マジ痛てぇ!」
「し、喋った! 猫喋った! なにこれ幻覚?!」
「おいおい馬鹿にするな。猫だって喋るときくらいあらぁな」
「ねーよ!」
 言うと同時、タオルケットを投げ付けられた。……痛い。
「まぁまぁ、落ち着け、な? ――なぁ、おい、だから、ちょっ、手当たり次第にもの投げるの止めろって……!」
 しばらくこんな状況が続いた後に、隣の部屋とこの部屋を隔てる壁が、どん、と叩かれた。当然向こう側から。うるさいから黙れという事だろう。
 少女は物を投げるのを止め、オレの向かいに胡坐をかいて座った。
「……で、なんなのあんた?」
「そりゃ、どう見たって可愛い黒猫さんだろ。馬ッ鹿じゃねぇの?」
「……」
「すみませんでした。許してください」
 女ってコワイ。
「で、ホントになんなのあんた?」
 さて、何なんだろうな。ホントに。
「ん〜、名前なんて忘れちまったし、何者かと問われても黒猫さんとしか言いようが無い。逆に訊くけどアンタは何でオレを拾ったんだ?」
「別に。ただ何と無くだけど?」
「じゃあ、最近悩み事とか有る?」
「はぁ? あったとしても、なんでそれを猫に相談しなくちゃなんないのよ」
 そりゃそうだ。
「だったらさ、とりあえず名前でも教えてくれよ」
 それを知ったところで事態が動くとは思えないが、知らないよりはマシだろう。
「人に名前を訊ねるときはまず、」
「オレの事は黒猫さんとでも呼んでくれればいい。兎に角、アンタの名前を教えてくれ。わっつ、ゆあ、ねいむ」
「……」
 少女は僅かな逡巡の後、
「……白玉杏(しらたまあん)」
 ぶっきらぼうにそう答えた。
 ……何て言うか、
「美味そうな名前だな」
 空のペットボトルが飛んできた。

 それからしばらく、オレと杏は適当にとりとめの無い話をした。
「ていうかさ、喋る猫っていったら、もっとメルヘンっていうかファンタジーっていうか、なんかこうそんな感じの声で”やぁ、お嬢さん”みたいなのだと思うんだけど?」
 前にそれやったら、えらい事になったからなぁ。
「言いたい事がさっぱり分からん」
「だから、そんな感じでお願いって事。やってみてよ」
「嫌だ、面倒臭い。てかね、見た目とイメージが違うってのは、お前も人の事言えないでしょ」
 白玉杏の見てくれは端整そのものだ。顔立ちが整っているというのは言うまでも無く、身体が描くシャープなライン、長い黒髪、睫毛一本に至るまでが計算尽くでつくられたような洗練された美しさ。
「はぁ?」
 だが、表情のつくりかたや仕草はやけに男臭い。加えて、言葉遣いも粗野に感じられる。さばさばしていると言え無くも無いかもしれないが、見てくれとのギャップが凄まじく、何とも言えないというのが彼女に対するオレの感想だ。
「もっと女の子らしくっていうか、しおらしくっていうか、どっかの令嬢みたいな感じ で”おほほ、わたくし、お団子大好きですわ”みたいな?」
「――はぁ?」
「いえ、なんでもないです」

 インターホンが鳴ったのは小一時間ほど経った頃だった。
 その音に杏は僅かに肩を震わせた。
「誰だ?」
「……たぶんおとうさん」
 という事はこの狭い部屋に、親子で暮らしているという事だろうか?
 言葉に出さずともオレの疑問に気付いたのか、杏は面倒そうに答えた。
「隣の部屋に住んでるの」
「ふぅん。一緒にじゃなくて?」
 そこでもう一度、急かすようにインターホンが鳴った。
「どっか適当に隠れてて。ここ、ペット禁止だから」
 ペットという言葉に不満を感じつつも、オレは落ちていた紙袋の中に身を隠し、耳を塞いだ。他所の家の事情など聞いても何の得にもなりはしない。
 室内に響く男の声。杏と男は何やら言い争っている様子で――会話の内容までは入ってこなかったが――、数分が経過し、オレが好奇心に負けて耳を塞ぐのを止めた頃には、男の方が「また来るよ」といって去っていった。
「…………」
 気まずい沈黙。耐えかねてオレはくだらない質問をした。
「上手くいってないのか?」
「……まぁ、ね。うん、そんな感じ」
「そっか」
「…………」
 再び沈黙。
「家ででもするかな」
 そう言ったのはどちらだっただろうか。
「悪くないかな」
 やはりどちらが答えたのかは分からなかった。



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