DASH!

第二章 Draw...?




 一週間余りのニート生活にそろそろ飽きがやって来た。
 そんな日の夕方、簡単な運動と暇潰しを兼ねて、オレは外をぶらつく事にした。
 特に目的地なども決めておらず、徐々に朱が深まる空を眺めながら、住宅街を歩く。
 一匹の猫に出会った。
 ぶくぶくと太った白猫だった。赤い首輪から察するにどこかの飼い猫なのだろう。
 何だか熱っぽい視線をオレに向けていたので、
「うぃーっす」
 と声をかけてみたところ、
「――っ!」
 でぶ猫は驚き、脱兎の如く逃走していった。
 礼儀のなっていない野郎だ。ファッキンキャットだ。
 そんな馬鹿らしい事をやっている間に、とあるマンションの前へと辿り着いていた
。  陽はどんどん傾き、遠くに見える山の間にその姿を隠しつつある。それに伴い、空は徐々に紫がかっていく。その紫色の中、いつの間にか浮かんでいた薄い月と星に気付き、今日も一日何もしなかった、できなかったと考える。
 途端、足元が、ぐらり、と揺れる錯覚。次いで、ふわり、と浮遊感。
 何もしない、何もできないというのは駄目だ。怠惰は心と体を蝕む錆だ。放っておけば、何れ取り返しの付かない事になる。錆は輝きを奪い、機能を腐らせる。
 ふと、自分の身体は錆に塗れているのではないだろうかと考え、恐怖した。
 自分はもう、どうしようもなく、取り返しの付かない程に、その価値を無くしてしまっているのではないだろうか? 最早、魔の助力でも求めぬ限り、その輝きを、その価値を取り戻せないのではないだろうか?
 否。と首を振る。――しかし、それすらも否。それは現実逃避に過ぎない。……いや、果たして現実はどちらで、どこで、どれであっただろうか?
 現実の所在、自身の存在、価値は不在。
 境界線が崩れ去る。
 空の色は先程よりも濃厚なものとなり、温かな闇を連れてくる。その闇に溶け込んでいく。一面の黒に溺れる。
「――」
 息苦しさが現実の方位を知らせた。
 有るべき現実に向かい、オレは駆けた。

 気が付くと、オレは絵描きの暮らす安アパートに戻っていた。
 乱れた呼吸を整えながら、一歩一歩、足の裏の感触を確かめ歩いていく。
「……ん?」
 アパートの前の電柱に怪しい人影を発見。
 矮躯の青年だった。一見すると安いチンピラ、目付きは悪く三白眼。髪は黒く長く、肩口の辺りまで伸びている。黒のトレンチコートに黒スーツ、黒のネクタイというこれから葬式にでも向かうような黒づくめ。ぶっちゃけカラーリングがオレと被ってる。
 青年は口の端に煙草を咥え、不機嫌そうな表情で電柱にもたれかかっていた。
 十分程かけて煙草を三本消費したの後、青年は後悔するような表情でその場を立ち去る。その際に、ぽとり、と煙草の箱を落とした。捨てたわけではないだろう。青年はそれに気付く様子も無く、ポケットに手を突っ込みながら去っていく。
 オレは気紛れな親切心から、煙草の箱を口に咥え、青年の前方へと回り込んだ。
 青年はオレを視界に捉えると、訝しみながらもオレから煙草の箱を受け取った。そして、そのまま去っていく。――ちょっと待て。
「礼ぐらい言ったらどうだ?」
 思わず喋ってしまった。
「…………」
 オレの言葉にチンピラ青年は振り返り、ことらに向かってゆっくりと歩いて来た。
 そして、放たれるヤクザキック。
「――ちょっ、おまっ!」
 間一髪でそれを回避。
 今の蹴りは、冗談やじゃれ合いの類で放たれるものではなく、どう考えてもガチな蹴りだ。当たればぺしゃんこ、という事は流石に無いとしても、猫の身で人間の蹴りを喰らえばどうなるかなんて考えるまでも無い。
 一発目の蹴りを回避した後、オレを待っていたのは二発目三発目の蹴りだった。
「ま、待てって! 話せば分かる! とりあえず、話し合おう、なっ?!」
 そうして、蹴りの回数が十を超えたところで、青年はやっと蹴るのを止め、オレから受け取った箱から煙草を一本取り出し、ジッポでそれに火を燈した。口から吐き出された煙が、澄んだ夜の空気を汚す。
「いきなり蹴ってくるなんて、いくらなんでも酷すぎるだろ」
 とりあえず青年の行動を非難してみた。大丈夫、今いる間所なら十分に蹴りの射程圏外だ。
「――あぁ?」
 かちゃり、と金属質な音がした。
 それは月光と星光を反射し、鈍い光沢を放っている。形はL字状で、先っぽには穴が穿たれており、その穴がオレに向けられている。このままではオレの腹に九ミリ程の穴が穿たれかねない。
 どう見ても拳銃だ。
 なんとこの青年、自分が非難され都合が悪くなったからといって、武力による強制的な鎮圧に乗り出そうとしているのだ。矮小なのは見てくれだけではないらしい。しかし、オレは武力による弾圧には断固として屈しない。そんな事、黒猫さんのプライドが許さないのだ。
「あのぅ、なんか、その、ホントすんませんでした……」
 争いは何も生まない。オレは込み上げる紅蓮の如き怒りを嚥下して、表向きは白旗を上げる事にした。そう、あくまでこれは平和的解決なのだ。武力に負けたのではない。ましてや、びびってなど……。それはもう、断じてそういうわけではないのだ。
「……で、てめぇ一体ナニもんよ?」
 そう言いつつ、なんとか拳銃を懐に収めてくれた。いやはや、これで一安心である。 「なにもんって、そりゃ可愛い黒猫さんに、」
「――あぁ?」
「いえ、あの、ふざけている訳ではなくて、自分でも自分のことがあんまり解ってなくて、そうとしか説明できないんスよ。はい。あ、なんで喋れるかとかも解らなくって……。いや、ホント、マジで、断じてふざけてるわけじゃないッス」
 青年は面倒そうに顔を顰めた。
「じゃあ、なんで俺に声かけた? 用もなく声かけたわけじゃねえよな?」
「あ、はい。そこのアパートに知り合いと一緒に住んでまして、それで、何か用なのかなぁ、と思った次第でありまして……」
「ふぅん? 知り合いっつーのは?」
「絵描きの男なんスけど……」
 そこで青年の表情が少し変わった。
「おい、てめぇ、」
 そこで、ぐぅ、とオレの腹が空腹を告げた。間の悪い事に青年の言葉を遮って。もう、オレのお腹のお馬鹿さん!
「お、お腹一杯ご飯を食べさせてくれると嬉しいな☆」
 ヤクザキックが飛んできた。



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