DASH!

第二章 Draw...?




 流れる雲が月を覆い隠した。
 見上げた夜空は星が少なく暗い。
 いっそこのまま明るくなるまで外で過ごそうかと思った。
 アパートに戻ったところで、待っているのは亡霊と自身の内から生じる苛立ちだけだ。ろくな事など有りはしない。
 なぜ魔女はオレを絵描きのもとへよこしたのか。それがまったく分からない。
 そもそもからして、オレと魔女の関係はどういったものなのか。なぜオレはあそこにいたのか。そういった事すらも分からない。
「分からない事だらけだ」
 しかし、それは大した事ではないだろう。どうせ最初から最期まで世の中は分からない事だらけなのだ。何か一つ分かったとしても、また新たに分からないものができるだけ。そんな事は分かりきっている。
 何だかんだと考えているうちにアパートの近くまで戻ってきてしまった。
 先程、藁菱がいた電柱の近くに人影を発見。またかよ、と思う。
 今度のは白いコート姿。藁菱より少し高めの背丈。
「ユイか?」
 白コート――ユイにオレは声をかけた。
「……なんだ化け猫か」
 ユイはどこか物憂げというか、疲れたような面でそう応えた。にしても酷い言われようである。
「こんな時間にどうした? 女一人で人気の無い夜道は危ないぜ?」
「へぇ、心配してくれるんだ?」
「別に。ただの社交辞令みたいなもんだ」
「……ほんっと、あなたってムカつく化け猫よね」
「ムカつくのはお互い様だろ」
 ユイはゆっくりと夜空を見上げ、そこに鑑賞すべき月や星が見当たらない事を察したように嘆息し、視線を地上に戻した。
「ねぇ、そうちゃんって、絵描こうとしてる?」
「そうちゃん?」
 聞きなれない名だが、思い当たる節が有るとすれば――
「絵描きの事か?」
「あなたはそう読んでるんだね」
 そういえば、オレって絵描きの名前も知らなかったのか。
「紅坂奏龍(こうさかそうりゅう)。で、そうちゃん。かわいいでしょ?」
 全っ然似合わねー!
「豪い名前だな」
「にあわないよねー」
 こいつと意見が合ったのは初めてかもしれない。
「それでさ、描いてるの? 絵」
「描こうとはしてるな。一応。上手くはいってないけど」
「……そっか。やっぱりそうだよね」
「あの様だからな。描こうとしても描けないだろ」
「あたしは、そうは思わないんだけどなー。そうちゃんなら大丈夫。そんな気がするの」
 ユイは笑った。
 オレにはユイがなぜ笑うのか理解できない。
「筆を握れないんだぞ?」
「うん。そうちゃんなら大丈夫、っていうのはあたしの希望とか願望なのかもしれない。それでも、そうちゃんには絵を描いていて欲しいよ」
 ややあって、
「あたしね、そうちゃんの事が好きなんだ」
「知ってる」
「えー、何で? ライクじゃないよ? ラブの方だよ?」
「……いや、分かってるから」
 この女はオレの目がどんだけ節穴だと思ってるんだ。
「てか、何で好きになったんだ? オレにはさっぱり分からん」
「えー、かっこいいじゃない?」
「そんな安易な理由じゃないだろ?」
 それにオレはあいつが格好いいだなんて思わないし、思えない。藁菱にしたって、何であそこまで奏龍を買いかぶるのか分からない。今の紅坂奏龍にそこまでの価値が有るなんて思えない。
「しょうがないなぁ。それでは! あたしの初恋話でも聞かせてあげましょうっ!」
 あ、うぜぇ。

◇◆◇◆

 藍嶋結(あおしまゆい)は孤児であった。
 産まれて数ヶ月程で産みの親に育児を放棄され、駅構内のコインロッカーに押し込められたのだ。
 不幸中の幸いだったのは、彼女がコインロッカーの中で息を引き取るよりも速く、金銭等目的でそのコインロッカーを抉じ開けた若者が現れた事だろう。
 その後、ユイは孤児院に預けられ数年をそこで過ごす事になる。
 孤児院での生活は決して裕福なものではなかったが、かといって辛いものでもなかった。孤児院の院長の人柄も要因であったし、もとより贅沢など知らぬ少女にとって多少の貧困など苦になるはずも無い。それに、孤児院で暮らす孤児はユイを含めると十人以上がおり、他者とのコミュニケーションにおいての不便、不足は見当たらず、それは彼女にとって実の両親が不在という事実を補って余りあるものだった。
 新たな両親が現れたのはユイが小学校に通う少し前の事だった。
 彼女を養女に迎え入れたいと申し出たのは、藍嶋夫妻――現在のユイの両親である。
藍嶋夫妻は当時、結婚して数年が経過していたが子宝に恵まれず、しかし夫妻共に子供を欲していたため孤児院から養女を迎え入れる事にしたのだ。
 院長は夫妻の人柄等からこれを承諾。ユイ自身も夫妻の申し入れを承諾した。
 こうして、小学校に通いだす頃からユイは藍嶋の性を名乗る事になる。
 新しい両親との生活は特に問題なく行われた。藍嶋夫妻の人柄は院長が判断した通りのものであったし、ユイはあまり人見知りをするような性格ではなかったからだ。
 性格、つまり人格の形成において最重要視されるのは育った環境である。良好な環境は良好、健全な人格を形成し、またその逆も然り。そういった事を鑑みるに、ユイが育った孤児院の環境はあまり裕福ではなかったとは言え、良好なものだったと言える。
 藍嶋家で暮らすにあたって強いて問題点が有ったとすれば、初日と二日目、食卓を彩る食事の豪華さに驚き、これでは孤児院にいる他の孤児達に申し訳がないとユイが泣き出してしまった事くらいだろう。
 紅坂奏龍と出会ったのは、ユイが藍嶋の性を名乗り始め約半年が経過した頃だ。
 その日、ユイは隣に住む紅坂家に預けられていた。藍嶋夫妻が世話になっている親戚に不幸があったらしく、夫妻は揃って出かける事となった。その際、ユイを連れて行かなかったのは彼女に気を使っての事だった。夫妻はユイに対して実の子として接している。しかし、周囲はそうでない。夫妻がどう思い、どう接しようが、真実としてユイという子供は夫妻の実の子ではないのだ。周囲はそう考える。そして、そうしたものは言葉にせずとも、態度などに表れる。果たして、そうしたものにユイは堪えることが出来るのか。不安に思い、夫妻はユイを紅坂家に預ける事にしたのだ。
「お隣さん――お父さんの学生時代のお友達のお子さんを預かる事になったから、奏龍、面倒を見てあげてね」
 そう言って、奏龍の母親はユイを奏龍に預けた。大人が話相手になるよりも、少しでも年齢の近い我が子が話相手になる方がいいと思ったのだろう。当時、奏龍は中学一年生であった。
「くさい」
 奏龍の母親が去った後、ユイが放った第一声である。
「……ごめん。多分、絵の具の匂いだと思う」
「そんなこと、いわなくてもわかるよ」
「…………」
 ユイは鞄から数枚のプリントとノートを取り出し、黙々と宿題を始めた。
 その間、奏龍はユイに何度か話しかけた。面倒を見てやれと頼まれた以上、何かしら話しかけた方がいいと思ったのだろう。しかし、当時は今以上に口数が少なく、口下手な奏龍の努力は成果を上げる事ができなかった。
 数度は話しかけ、
「うるさい。……おにいさん、ロリコン?」
 そう言われて奏龍の努力は霧散した。
 やがて空は暗くなり、ユイは鉛筆を走らせるのを止めた。
 一息付き、奏龍の視線に気が付いた。
「ロリコン?」
「……違う」
 ユイはつまらなさげに窓から空を眺めた。動作は緩慢で、確かにつまらなさげではあったが、その目にはどこか期待のようなものが籠もっていた。
「……」
 窓の外に見える夜空には、月はおろか星すらも無かった。
 その日の夕方から曇りだし、この時間には雲が完全に月も星も覆い隠していたのだ。宿題や予習に集中していたユイはその事に気が付いていなかった。
 そんな彼女の様子を見て、奏龍は動いた。
「……ちょっと待ってて」
 その後、奏龍がとった行動にユイは我が目を疑った。
 何とこの男、絵を描き始めたのだ。
 おいおい、ちょっと待て。そう思った。ちょっとって、だってお前それ、ちょっとどころの時間じゃないだろ、と。
 実際、奏龍が言うところの”ちょっと”というのは十二時間近くに及んだ。
 絵を描き始めると、奏龍の母が食事を持って来たときも、ユイが寝てしまったときも奏龍はまったく気が付く様子が無かった。不眠不休。
 絵が完成したのは翌日、ユイが目を覚ました午前八時頃だった。
 奏龍は満足げな表情で描き上がった絵をユイに手渡し、そのまま眠ってしまった。  夜空の絵だった。
 黒と紺を主とし、全体にぽつぽつと散らばった小さな点が有る。左上に向かうにつれて黒と紺が明るくなり、白や黄色がかっていく。そうして、一際大きな点に辿りつく。ぼんやりとした丸い月がそこに浮かんでいた。
「――」
 ユイはそのとき初めて知った。平面にも深みは存在するのだと。彩りとは五感すべてを刺激するものなのだと。そして、世の中にはこんな馬鹿が存在するのだと。
「ていうか、もう朝だし」
 その日から、ユイは奏龍のもとへ足繁く通う事になる。



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