DASH!

第二章 Draw...?




 ユイは夜空が好きだった。
 月と星と濃紺。それらを見ていると、ときには心が安らぎ、ときには無性に駆け出したくなる程の高揚感に包まれた。
 孤児院にいた頃は他の孤児達と一緒によく夜空を見上げたものだ。星に勝手に名前を付けて笑いあったりもした。付けた名前は次の日になると忘れてしまっていたけれど。
 一人でいるときもよく夜空を見上げていた。
 しかし、曇りの日の夜空は好きではなかった。
 月も星も見当たらない夜空はただ暗く、味気無く感じてしまう。
「……」
 奏龍に絵を貰ってから、ユイはその絵をよく眺めた。
 部屋の隅に飾られた絵にはいつでも月と星が浮かんでいる。窓の外が曇りであろうと、いつだって極上の夜空を眺めることが出来る。
 自分のために彩られた夜空は少女にとって、とびきりの宝物になっていた。見るたびに胸の内がざわめいてどうしようもなくなる。
 絵を貰った翌日からユイは紅坂家――奏龍の部屋をよく訪れるようになった。
 いつ部屋を訪れようと大概、奏龍は絵を描いていた。それを邪魔する事も無く、ユイはいつも彼の近くで勉強をしていた。当然、会話は少なく傍から見れば退屈この上ない光景である。それでもユイは足繁く奏龍のもとへ通った。
 筆を握る奏龍は、普段の彼からは創造も付かないほど眩しく見えた。キャンバスを見つめる表情は実際の年齢からずいぶんかけ離れて見えるほどに、凛々しく、触れれば切れそうな程に真剣なものだった。それに反して、眼(まなこ)は赤子のように澄み切っているのだ。そして、絵が描き上がったときに見せる邪気の無い表情を見ていると、何だかこちらまで嬉しくなってしまう。
 一度、彼の真似事をして絵を描いてみた事が有ったが、どうにも上手くいかなかった。以降、ユイが真面目に絵を描こうと思ったことは無い。それが自分と奏龍との違いなのだなとも思った。
 いつの頃からか、夜空の代わりにユイは奏龍の横顔を眺めるようになっていた。筆を握る彼には不思議な魅力があったのだ。
 そうして三年が経過した。
 そんなある日の事だ。藍嶋家を一組の男女が訪れる。
 男女は自分たちがユイの実の両親であると言った。どういうルートでユイの事を知ったのかは定かでないが男女はそう言った。
 その言葉にユイと藍嶋夫妻は耳を疑った。しかし、女の少しウェーブのかかった髪やふっくらとした顔立ちが、言葉よりも雄弁にユイとの血の繋がりを物語ってもいた。
 男女は言う。
「当時、育児を放棄した事は本当にすまなく思う。取り返しの付かない事だと思う。でも、君が存命であると聞いて安心した。本当に心の底から安心したんだ」
 ユイと藍嶋夫妻は返すべき言葉が見つからない。
 そして、次の言葉でまたしても耳を疑う事になる。
「どうだろう、今からでもやり直せないだろうか? 虫のいい話だという事は分かっている。それでもやはり、自分の子を自分たちで育てたいんだ。昔と違って、今はお金も有る。私たちも成長した。……お願いだ、やり直させてはもらえないだろうか?」
 聞いて、言葉に藍嶋夫妻は共に憤激した。
 そんな虫のいい話があってたまるものか。ユイは自分たちが責任をもって育てていく。  あなた方の関わる余地など存在しないと。
謝罪と懇願を繰り返すユイの産みの親を名乗る男女を追い出し、扉を硬く強く閉ざした。
 ユイはその日のうちにその出来事を奏龍に話し、相談した。
「ユイはどうしたいの? それが一番重要だと僕は思うよ」
 その質問にユイは返答する事ができなかった。



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