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第二章 Draw...?
7 それから一月余りが経ったある日、親戚関係の用事で藍嶋夫妻は家を空ける事になった。その日もやはり、ユイは紅坂家に預けられていた。 奏龍は珍しく友人との遊びで出かけており、ユイはとても退屈を感じていた。ユイが散歩に出かけると言い出したのは必然の事であった。 紅坂夫妻はどちらかが、一緒に行こうかと訊ねたが、ユイはこれを断った。そして、夫妻もこれを承諾し、ユイを一人で出かけさせてしまった。 紅坂夫妻に、いや、周囲の認識に間違いがあったのならばそれは一つ。それはユイを聡明な人間として認識していた事だ。 ユイは勉強のできる子であったし、何より周囲に対する気遣いができる子供であった。加えて、常識力もあり、模範的な良い子であった。特に気遣いという面においては、小学生低学年のものではなかった。 しかし、周囲は気が付く事ができなかった。それは身寄りの無かった自らを養ってくれている両親に自分を認識させるための事なのだと。周囲に認められたい子供の精一杯の背伸びなのだと。そして、仮に聡明であったとしてもユイという人間は所詮子供であるのだと。 ユイが出かけて四時間。何の連絡もなく、そのうちに空は暗くなっていた。紅坂夫妻が警察に連絡を入れたのはこの一時間後の事である。 その頃、ユイはワゴン車の中にいた。 運転席と助手席に座るのは言うまでもなく、自称彼女の産みの親の二人である。 すまない。ごめんね。申し訳ないと思っている。ごめんなさい。でも、私たちがやり直すにはこれしかないんだ。 そう言って、血走った目で自ら産んだ子供を縛り付ける親を、ユイは覚めた目で見つめていた。 そんな目で見ないでくれ。すまない。本当にすまないと思っている。だからどうか許してくれ。今ならまだやり直せるはずなんだ。 自分でも驚くほど冷め切った脳でそれらの言葉を受け止める。……いや、受け止めはいなかっただろう。 耳から入る音声は、鼓膜を揺らそうとも脳には響かない。だからこれは意味の無い雑音に違いない。 途端、何もかもがどうでもよくなってしまった。人間とはこんなものなのかと、世界とはこんなにも色彩に乏しく、冷めたものなのかと。 世界から彩りが失せた気がした。 伴って、熱が消失する。 このまますべてを放棄してしまおう。 どうしたって、きっと、この先も何にもろくな事にはならない。 だから、すべてを諦めて、手放してしまえ。 そうして、すべてから興味を引き剥がそうとして―― 「――――」 四角い窓から見知った顔が見えた。 ――瞬間、世界に彩が満ちた。 一見根暗な男。でも知っている。筆を握れば、彼は誰よりも明るく輝く事を。 月も星も、太陽だって比べ物にならないほど繊細に、美麗に輝くのだ。 そんな男を自らの視界に、世界に捉えただけで、諦め、手放そうとしていたすべてが 手放せなくなってしまった。 その事が嬉しくて、悔しくて、それでもやっぱりどうしようもなく嬉しくて―― 体が、心が熱を取り戻す。 世界に彩が溢れ、涙が流れ溢れて止まらなかった。 だから、叫んだ。 口はガムテープで塞がれていて、声が出せなかったけれど、力の限り窓を叩いて叫んだ。 ここは嫌だ。 こんなところにはいたくない。 あたしは、あたなの傍にいたいんだ。 数秒して、男に押さえ付けられた。 それでも止めない。 そのうち、顔を殴られた。 痛い。口の中で鉄の味がする。 それでも止めない。 そして、奏龍はその視界に少女を捉えた。 そこからの奏龍の行動は迅速だった。 ユイを視界に捉えるや否や即座に駆けつける。 男は慌てて車を動かした。 日頃から運動不足の体を叱咤して、奏龍は徐々に速度を上げる車に追いついた。 サイドミラーを掴み、落ちてあったコンクリートブロックを拾い、窓を叩き割る。 窓から手を突っ込む。その際、派手に腕を切ったがそんな事を微塵も気にする様子はなかった。 内側からドアのロックを外し、運転席の男を引きずり出す。その後、男に数度拳を叩きつけ、ユイを車から降ろした。 ユイは奏龍にしがみ付き、顔を押し付けながら泣いた。 男はふらつきながら立ち上がり、頭を垂れた。 「許してくれ! 頼む、警察にだけは言わないでくれ! 私たちがやり直すにはこれしかなかったんだ!」 その言葉を聞いて奏龍は車を殴りつけた。 「これが親のする事か? ……そもそもあんたらは親でもない。それを名乗る資格なんて持っていないだろ」 「仕方がなかったんだ。あの時は、金もなくて、私たちも若くて……。今だって、私たち実の親子が幸せに暮らすためにはそれしかなくて……。過去の過ちを……」 最後まで言わせず、奏龍は男の胸倉を掴んだ。 「……ふざけるな。過去の過ち? 違う。それは過去のものなんかじゃない。今も続いている事だ。それを過去の事にして逃げようとするあんたらには償いをする権利も、資格もない」 「で、でも、私たちは、」 「――黙れ」 乾いた地の亀裂から這い上がるような声に男は、ひっ、と小さく鳴いた。 「……ここから消え失せろ。二度とその面を見せるな」 こうして、誘拐未遂という事で事件は一応の幕を閉じる事となる。 その後、奏龍はまず自宅に向かい自らの両親を叱責した。次に、怪我の手当てを済ませ、両親を伴った上で帰ってきた藍嶋夫妻に事の有様を伝え、謝罪。その上で彼は夫妻に言った。 「今回の件はこちら側の監督が至らなかった事が原因です。その上で言います」 両親の制止は間に合わなかった。 「あなたたち夫妻は本当にユイを自分の娘であると、真剣に、心の底から考えていますか?」 「それは当然……」 「では何故、今回ユイを連れて行かなかったんですか? 今回だけじゃない。あなたたちは親戚関係の用事のときはいつもユイをうちに預ける」 「それは……」 「親戚の方たちの目ですか? でもそれは本当にユイのためですか? あなたたちが親戚関係を重んじているのは承知しています。ユイを連れて行かないのは自分たちのためではないんですか?」 「違う! 私たちはユイのためを思って!」 「そうですか。では、一度でもユイの意見を聞いた事がありますか?」 「…………」 「ユイがなぜ勉強を頑張るか知っていますか? なぜ言葉遣いなどに気を付けているか知っていますか? 考えた事がありますか? このこは本当は勉強が得意ではありません。好きでもありません。それでも頑張ってテストでは良い点を取ります。このこはあまり言葉遣いの良いこではありません。僕なんか初対面でロリコン扱いですよ? それでもこのこは親の目の届く限りでは言葉遣いを乱していないはずです。何故だかわかりますか?」 後にユイの後輩であり奏龍の友人になる男は、”野郎は多分、俺なんかには見えねえ、違うものが見えてんだろうな。羨ましい限りだよ。――眼球片方くれねえかな”などと洩らす事になる。 「このこは、あなたたちの子であるために努力しています。それなのにあんたたちは外面ばかりだ。勝手にこのこは賢い子だと決め付けて。そのくせ勝手に大事な事を大人だけで決めて」 「私は……」 「――親なら護ってやれよ! 大事な娘なんだろ? 誰が文句言ったって、このこは自分の娘ですって胸張って言えよ。そんだけの事だろ!」 奏龍は一度呼吸を整えて、ユイに視線をやった。 「ユイはどうしたい?」 その問いかけにユイは涙を流しながら答えた。 「……お父さんとお母さんと、いっしょにいたい」 父、母が誰を指しているかは考えるまでもない。 言い終わって、ユイは本格的に泣き出してしまった。 夫妻は自分の娘を抱き締めて、何年ぶりかの涙を流し、何度も謝罪を口にした。 「……失礼しました」 そう言って、奏龍、紅坂夫妻はその場を立ち去った。 以降、藍嶋家が親戚関係などの用事で出かける際、娘を欠く事はなくなり、ユイの学校での成績が下がり始めた。 初めて親戚関係の用事でユイを伴った際、やはり周囲の目は厳しいものだった。 瞳に籠った感情は無意識に人を傷付ける。 そうしたものへの対抗策は鈍感になる事だ。 しかし、小学生低学年程度の子供がそれを身に着ける道理などあってはならない。心がある程度成熟するまで、許容量を超える外部からの刺激から護ってやるのが親の務めだ。 この場合の”護る”とは、隔離し囲う事ではない。護るべき対象の味方である事だ。 「このこは、――ユイは正真正銘私たちの娘です。異論などは一切認めない。もしこの中に私たち親子の関係を疑うような方がいるならば、私たちは今後一切、その方達とのお付き合いをお断りさせていただきます」 父が言い放った言葉に、ユイは自分たち親子を繋ぐ絆が見えたような気がした。 後日、ユイが奏龍のもとを訪れると、いつものように彼は絵を描いていた。 怪我をしたのは幸い左手だったので、何とか絵を描くこと事態は難しくなさそうだった。それでも、パレットを持つ左手が痛々しい。 「……」 何も言わず、ユイは彼の傍らに座り、パレットを奪った。 「……もつよ」 「あ、ああ。……ありがとう」 間近で筆を走らせる奏龍を見つめながら、本当にこいつは絵を描くのが好きなんだなと思う。 「ねぇ」 何となく、特に用もないのだけれど声をかける。 「……ん?」 絵を描いているときにしては珍しく、反応してくれた。本当に珍しい。自分がいつもより近くにいるからだろうかと、都合よく考えてみた。 「ロリコン?」 「だから違うって……」 苦笑い。 なんだ、と思う。 いっそロリコンにでもなってくれればいいのに。 そこは、でも、まぁ―― (未来の自分にでも期待しましょうか) |