DASH!

第二章 Draw...?




 ――からん。
 扉の内は黒だった。すなわち闇。
 ねっとりとした闇はいつもよりも濃く、無ゆえの闇ではなく有ゆえの闇。つまり、闇 が存在を持っている。
 ――からん。
 燈る、一対の琥珀色。
 鏡に映ったオレの姿は輪郭を失っていた。……厳密には失いつつある。当然だ。オレ もこの闇も同じ黒なのだから。
 ――からん。
 闇の中心に視線を投げる。――いた。亡霊はいつもと同じように、からん、と奏でて いた。
 ――からん。
「おい」
 そう声をかけた瞬間、這いずる闇が喉元に噛み付いた。
 ――からん。
 冷めた痛みが輪郭を形成する。
 闇に噛み付き、咀嚼する。……ああ、なんて不味い。
 ――からん。
 意識が闇と同調する。この闇は内からオレを喰おうとしているのか。でも残念。お前 は胃の腑に落ちて消化されるだけだ。
 吐き気を堪え、再び声をかける。
「無視すんなよ。そんな半端な事するくらいならオレと話そうぜ?」
 ――音が止む。
「……ああ、いたのか。すまない。気が付かなかったよ」
「そうかい。一点集中は結構な事だがな。でも、アンタが見るべきはそこじゃない」
「そんな事より、魔女はいつになったら僕の願いを叶えてくれるんだい?」
 奏龍の目は薬に縋る中毒者のそれだ。本来見るべきものに対して焦点が合っていない。
「そんな事とは失敬な。大事な事なんだぜ? だって、あんたキャンバス見てないだろ」
「――」
 目の焦点が若干合う。注意を向ける事は成功。
 次いで虚を暴く。
「描きたい絵があると言ったな?」
「……ああ。少し前に見に行った高校陸上のインターハイ予選。そのときに見た短距離 選手の疾走が描きたいんだ。……あれは最高のモチーフだ。まるで銃弾のようだった。 世界に自分の存在を示し、穿つような疾走だった。だから、絵を描きたいんだ。それが 最後になろうと、」
「嘘だな」
「……え?」
「最後? ガキみたいな嘘つくなよ。分かってんだろ、自分でも。描きたいものが有る から描く? 違うな。そんなもんは後付けだ。あんたが絵を描く理由はそれじゃない」
 根源たる理由はそんなものではない。馬鹿なやつだそんな事もわからないのか。いや、 考えた事などないのか。今まではそれでどうにかなってきたんだろう。
 夢や願いが照らす足元。類稀なる幸運と、遂に訪れた不運。
 危うい綱渡り。
 生きる事とはつまり、一秒毎、あるいはそれよりも狭い間隔で、サイコロを振り、コ インを投げ、常に運を試しそれと勝負をするようなものである。所詮その程度の事なの だ。
 紅坂奏龍の人生とはまさに、細く脆い綱の上を全力疾走するようなものだったのだろ う。今まで偶々、落下しなかっただけの事だ。それがとうとう今回、足を踏み外してし まった。それだけの事だ。
「……知ったような口を叩くな。他人の君に何がわかる。筆を持てなくなって数日の喪 失感がわかるか? 死のうとも思った。でも、できなかった。だから、今回の事は運が 悪かったと諦めようとも思った。でも、できなかった。暇つぶし程度の気持ちで行った あの場所で、新しいモチーフを見つけてしまった。ただ、それだけで、手放そうとした ものが手放せなくなってしまったんだ……」
「下らない責任転嫁すんなよ。虫唾が走る。モチーフを見つけたからだぁ? どうせ、 あんたは手放さなかったんだよ」
 足を踏み外しての落下。そのまま、落ちて別の綱なり道を歩く。それが真っ当なやり 方であり、在り方だ。多くの人間はそうして生きている。恥ずべき事でもないし、それ が普通で賢いやり方だ。
 ――しかし、この男は足を踏み外した刹那、綱を掴んだ。それは今も放してはいない。  まさしく愚の骨頂。賢者に哂われるべき愚者。
 現存する手は握力を失ったというのに掴み続ける力の所在。それこそがこの男の理由。 「ぬるいんだよ。あんたのやり方は。思いきりが足りてない。全力疾走で駄目だったん なら、今度はいっそ、そのまま落下してみろ」
 そう、落下すればいい。大丈夫。それでもきっと、この男からは理由も夢も失わない。  次のもの、別のもの。そんな賢しいものを求めないなら、ただ只管に落ちていくだけ だ。それは綱の上を走るよりも速い。いずれ限界を突破する。物理法則など関わる余地 もない。何せ、夢なのだから。
 その様を見て、賢者はやはり哂うだろう。
 しかし、賢者は知らない――あるいは心の隅では識っている――度を越えた落下とは、 縛鎖より解き放たれた上昇に他ならないのだと。
「あんたの手はそれじゃない。そもそも手なんて本当に必要か?」
 咀嚼した闇から流れ込んでくる彩り。
「あんたにとって絵っていうのは手で描くものじゃないんだな。なら始めないとな。ア ンタの終わりは此処には無い。脳と筆は直結してるんだろ?」
 だから、あの女が願った、この男の願いを暴き出す。
「願いを述べろ」
「僕は……」
 闇が薄れていく。男は輝きを取り戻しつつある。
「僕は絵が、描きたいんだ」
 瑞々しく響く切実な願い。
「昔から絵を描くのが好きだった。絵を見るのが好きだった。絵を見てもらうのが好き だった。絵から紡がれた友人達が好きだった。理屈なんてなかった。――そうだ」
 何かを成すために理由があるならば、それは過去が成したものである。……少なくと も、オレはきっと、そういったものしか持ち得なかった。だからこそ、目の前に在る輝 きに目が眩む。オレが終ぞ持ち得なかった、健全で繊細で美麗な、原初より今まで続く 不屈の理由。

「――僕は絵が好きなんだ」

 何て妬ましい。こんなものが根源に成り得るなんて。闇も錆も、これを真に侵す事な どできまい。ましてや、魔が寄り付く余地など有りはしない。
 オレの中に在りはしない輝き。黄金ではなかった。輝くものがすべて黄金とは限らな かった。硝子玉じみた尊い輝き。
「だったら、さっさと描け。筆もパレットも絵の具もキャンバスも、全部揃ってる。あ とはアンタだけだ」
 奏龍は筆を握った。
 からん、と落とす。
 数度繰り返す。
 次に手ごろな紐を見付け、筆を固定。
 キャンバスに彩が走る。
 一時間ほどが経過して、外す。感覚が合わないのだろう。
 少し思案した後、口に筆を咥えて描き出した。
 キャンバスに走る彩り、瞬きの間に世界の創造。
 すぐに、パレットを持てない事に不満が生じるだろう。
 大丈夫。もうじき足音が聞こえるはずだ。
 オレの役目は終わった。だから去ろう。陽が昇るまでには帰りたい。朝日は苦手なの だ。

◇◆◇◆

 部屋から去る間際、ごとり、背後から音がした。
 振り返ると、そこには一つの独特の光沢を持つ黒林檎。
 その艶やかな果実を魔女への手土産とする事にした。

◇◆◇◆

 帰りの森の中、オレは不安と戦いながら洋館を目指していた。
 本当にオレは魔女の望み通りの事を成せただろうか? こんな土産で許してくれるだ ろうか?
 皮とか剥がれたりしないかな。何かしらの儀式の生贄になるのではないかな。まさか、 食われるなんて事はないよな。
「……」
 あー、帰るのすげぇ億劫になってきた。

 扉は半開きになっていた。閉め忘れただけなのか、オレが入れるようにわざと開けて いるのか。……まぁ、どっちでもいいか。分かったところで得られるものは無い。
 半開きの扉の隙間に体を滑り込ませ入室。
 魔女は優雅な仕草でティーカップに口付けていた。
 揺らめく湯気と流れる香りから、カップの中身が紅茶である事がわかった。
「おかえり」
「ただいま」
 魔女は笑っている。
「こっちにきて。体の調子が悪いから立つのが億劫だわ」
 ただし、笑っているからといって機嫌がいいとは限らない。
 近づいた瞬間にこう、ばくっ、と食われてしまうのではないだろうか。
 体の震えを堪えながら、オレが前にも後ろにも進まないでいると、
「早く」
 そう念を押された。
「……はいぃ」
 ゆっくりと歩いていく。
 魔女の手の届く範囲までやってくると、彼女はティーカップを置いて、
「――ひぃっ!」
 オレから林檎を取り上げた。
「ありがとう。よくやってくれたわ」
「あ、ああ」
 どうやら、満足していただけたらしい。
 最初からこの林檎が目当てだったのだろうか?
「どうするんだそれ?」
 林檎の色は艶やかな黒。食えるとは思えないし、鑑賞物としても趣味が悪い。
「どうするって、林檎なのだから食べるに決まっているじゃない」
 言って魔女は、がぶり、と林檎に噛み付いた。皮も剥かずに丸ごとだ。
 瞳を潤ませ、生気に満ちた表情で、恍惚と魔女は言う。
「――美味しい。とても、美味しいわ」
 瑞々しい果実の音が室内に反響した。

◇◆◇◆

 と、以上が半年前――今年の二月の出来事である。
「で、感想は?」
「寝る前に聞く話にしては長かった」
 ドライな答えだな。もう少し、感想らしい感想はなかったのだろうか?
「そう言うなって。言ったろ? 面白くもないし、ためにもならない話だって。オレと しては、話してる間にお前が眠ってしまうのを期待してたんだよ」
「あっそ。まぁ、いいや。そろそろ眠たくなってきたし」
「そうかい。じゃ、オレはこれで」
 そう言って、オレは椅子から飛び降り、その場を立ち去ろうとする。
「……ねぇ」
 部屋から出る直前、背後からの声で立ち止まる。
「ん?」
「一つだけ質問」
「何だよ?」
 はて、今の話で興味を引くような疑問があっただろうか?
「紅坂さん、だっけ? その人って今どうしてるの?」
「分かんない?」
「だって、会った事もない人の事だし。ていうか早くしてよ、眠いんだから」
 む、我が侭なやつめ。
 ……確か、奏龍のその後について、だったな。オレはあの日以来、奏龍に会ってはい ない。いやでも、考えるまでもない事だろう。

「そりゃ、絵でも描いてるんだろうさ」



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