DASH!

 まっさらな白い世界に自分の色を走らせる。
 自らの意思で彩りを与え、一瞬を一つの世界に閉じ込める。
 一瞬を網膜に焼き付けて、そのさらに奥を見据える。
 耳で聞き、鼻で嗅ぎ取り、肌で感じて舌で味わう。
 描く事は一瞬の再現ではなく、世界の想像と創造。
 世界を創造する筆は、それを創造する脳と直結している。
 何も難しい事ではなかった。
 ただ、自由に筆を走らせるだけだった。
 描きたい世界が有るならば、ただそれを描くだけだった。
 終わりは唐突で呆気無い。
 脳と筆を繋ぐ手からその価値が消えた。

 ――しかし、このままでは終われない。

 まだ、描きたい一瞬が有るのだ。
 創り上げたい世界が有るのだ。
 夏の日、炎天の下で目にした銃弾の如き疾走を、あの一瞬を描きたい。
 それが最後でも構わない。
 その願いが叶うのなら、僕は――



第二章 Draw...?


 気が付けばそこにいた。
 頭上には巨大なシャンデリア。深紅の絨毯敷かれた広い部屋。気が付けば、オレはそこにいた。
「それで、あなたはこんな所に何をしに来たのかしら?」
 鈴を転がしたような女の声が鼓膜を叩いた。声の方に目をやると、アンティークじみたテーブルとイス。そこに女がいた。綺麗な、割れ物のような女だった。
「絵が……、絵が描きたいんだ」
 今度は掠れた男の声。二十代後半くらいの、背が高い男だ。纏う空気は暗く重く、目元のくまがそれを一層際立たせている。
「描きたい絵が有るんだ。どうしてもあの一瞬を描きたいんだ」
 ――でも、と男は言った。
「今の僕には、できないんだ。この手では、もう、描けないんだよ」
「それで、こんな所に?」
「ああ。森の魔女は願いを叶えてくれるんだろう?」
 とんだ与太話を信じたやつがいたものだ。まぁ、それほどに必死だという事か。
「せっかくこんな所まで来てくれたのだし、願いは叶えてあげてもいいけれど、無料で無償という訳にはいかないわ」
「……何か、代償が必要なのか?」
「ええ、そうね、とりあえずは……」
 女は視線を巡らせ、オレの姿を捉えると目を細め笑った。
「しばらく、このこの面倒でも見てもらおうかしら?」
「このこって、……黒猫? しばらくってどれくらい?」
 どうやらオレは黒猫らしい。
「しばらくはしばらくよ。願い、夢の代償としては安いものでしょう?」
 男は数秒思案した後、
「ああ、分かったよ」
 そう言って頷いた。
 男はオレを抱え、館を後にした。

◇◆◇◆

 帰りの森の中でオレは男に言った。
「そろそろ降ろしてくれ。自分で歩ける」
 兎に角、自分の意思で自分の足を動かしたかった。
「……」
 男は黙ってオレを降ろし、しばらく硬直した。ややあって、男の口が動く。
「……驚いたな。喋れるのか君は」
「猫だって喋る時くらいあらぁな」
「いや、普通は無いと思うな……」
 男は苦笑いしながらそう言った。
 それにしても、
「自分で言っといてなんだけど、もう少し驚いてもいいんじゃね?」
「まぁ、魔女の猫だからね。それも黒猫。多少の不思議は受け入れる事ができるよ。彼女が魔女だという事への信憑性も高まったし。それに、これでも結構驚いてるんだけどね」
「そうかい」

 男の住処は安そうなアパートの一室だった。風呂とトイレは付いているものの、隣の部屋とこの部屋とを隔てる壁は薄そうで、床は軋み、気を抜けばぶち抜いてしまいそうだ。いやまぁ、あくまで人間の重さであったなら、という事だが。おまけに、この部屋たぶん、傾いてる。床にビー玉でも置けば、ころころと転がっていく事だろう。
 部屋に入ってすぐ、馴染みのない匂いが鼻腔を刺激した。部屋を見渡せば、匂いのもとは容易く察する事ができる。絵の具だ。
 その他にも絵に関わるものがこの部屋には散乱していた。完成された絵や未完の絵、幾つもの賞状にトロフィーなどなど。きっと、こいつはそれなりに有名な絵描きだったのだろう。
「よくできたもんだ」
 オレは絵に関する知識など一切持っていない。それでも、この部屋に有る絵は素直に感心できるものばかりだった。
「はは、ありがとう。その絵は自分でも気に入っているんだ」
 青い絵だった。海と空と雲と太陽、それだけで構成された青い絵だ。平面に彩られただけの青い世界。なのに、この絵からは、奥行きや塩の香り、肌を炙る太陽の熱など、五感すべてを刺激する要素が伝わってくる。おそらく、同じ場面を写真で撮ったり、ビデオカメラで撮影するよりも、この絵はそのときに在ったものを正しく捉えているだろう。
「五ヶ月くらい前に、旅行に行ったときに描いた絵でね。知り合いに半ば無理やり連れて行かれた旅行だったけど、……うん、悪くはなかった、かな。でも――」
 男は浅い溜息を付いた。
「……それが、僕が最後に完成させた絵だ。最後になってしまった」
 ああ。そうか。そういえば、今はもう描けないんだとか言ってたな。
「何で描けなくなったんだ?」
 スランプなどといった理由ではないだろう。そんな理由では魔女のもとなど訪れまい。 「旅行の帰りに、ちょっとした荒事に巻き込まれてね。この通り、僕は文科系の人間で、荒事というのは昔からからっきしなんだよ」
 荒事の内容を男は濁しながら語った。あまり思い出したくはないのだろう。
「そのときに、怪我をしてしまったんだ。リハビリも頑張ったんだけど、どうにも良くならなくて……」
 両手で一人でジャンケンを繰り返しながらそう言った。グーとパーを繰り返し、延々と相子を繰り返す。テンポは遅い。
 右手には指が一本足りていなかった。
「利き腕はこの様だし、握力がまともに入らないんだよ。両方ともね」
 男の纏う空気が暗度と重度を、ずん、と増した。
「……」
 気の効いた言葉は何も思い浮かばなかった。
 少々の沈黙が訪れ、オレが何か言葉を発しようと思ったとき、背後――玄関の方から気配。
「ね、ねえ、さっきからなにと話してるの……?」
 振り向くと、女が立っていた。片手に持ったビニール袋からは、食欲をそそる香りが 漂ってくる。  柔らかみと暖かみが感じられる女だった。肥満体系というわけではないが、ふっくらとした体付き。目元がぱっちりとしていて、顔の輪郭は柔らかな丸みを帯びている。特別美人だという事は無いが。かわいらしいといった印象を受ける。
「やっぱりこんなジメジメとした所に籠もってるからかな……。うん、そうに違いないわ。やっぱりうちに来た方が……」
 女は何やらぶつぶつと呟き始めた。
 というか、男から見て玄関は正面のはずなのに、男は女の存在に気が付かなかったのだろうか?
「そう! 今からうちに行きましょう。今日はお父さんもお母さんもいないし……って、その、あの、そういう変な意味じゃなくってっ!」
「いや、違うんだよ。この黒猫とね……」
「……ねこ?」
「やぁ、お嬢さん」
「い、いやぁぁぁぁぁあああああああああああああああ!!」
 絶叫の残響音が失せきらぬうちに、女は糸が切れたように気絶した。合掌。



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